アジア系の移民であったジェリー・ヤン
ジェリー・ヤン(楊致遠)は1968年に台湾・台北市に生まれ、78年にアメリカ・カリフォルニア州サンノゼへ移住しました。当初は英語も話せませんでしたが、たった3年でマスターし高校では成績優秀者のみが履修できる大学レベルの英語のクラスにいました。大学は西海岸の名門として知られるカリフォルニア州のスタンフォード大学に入学し、電子工学を専攻しました。
ジェリー・ヤンの学生時代とは?
博士課程に在籍していた1994年に、大学の友人デビッド・ファイロと共に研究室のコンピューターを使ってウェブディレクトリサービスを作りはじめたことがのちのYahoo!設立につながります。
当時、世界中でウェブサイトが次々とつくられていましたが、パソコンユーザーはどこにどんなサイトがあるのか知るすべがありませんでした。ヤンとファイロは当初、自分たちが見つけた興味深いサイトを自分たちのウェブサイトで紹介していましたが、やがて分野ごとにサイトを分類してユーザーに提供し始めました。この便利なサービスは評判を呼び、世界中から2人のパソコンにアクセスが殺到したため、スタンフォード大学の回線がパンクしてしまうほどでした。
孫正義の弟、孫泰蔵が憧れを抱いたジェリー・ヤン
1995年3月、ヤンはファイロと共にYahoo!inc.を設立、事業を開始しました。「どう利益を得ればいいのか、はっきりわかっていませんでした。でも、運命だ、これに賭けてみようと思ったんです」とヤンは当時のことを振り返って述べています。
同年11月、Yahoo!の事業のことを耳にし強く興味を抱いたソフトバンクの孫正義はすぐにシリコンバレーへ飛び、ヤンに会いました。その場で2億円を投資することを決めた孫は翌96年1月、当時はまだ従業員数15名、年商2億円、毎月1億円の赤字を出していたYahoo!に対しさらに100億円の投資を決め、ヤフージャパンの設立に着手しました。そのとき現場の責任者として抜擢されたのが、正義の15歳下の末の弟で当時まだ東京大学の学生だった孫泰蔵でした。
インターネット草創期の1990年代前半、画期的なサービスを生み出した若きIT起業家ヤンは日本の学生たちの間でもヒーロー的存在でした。ヤフージャパンの立ち上げに関われば憧れのヤンに会えると考えた泰蔵はキックオフミーティングに参加し、それからわずか2か月余りでヤフージャパンをスタートさせます。
ジェリー・ヤンの名言
ジェリー・ヤンが残している言葉からその人となり、起業家精神がうかがえます。
- 「要は規模ではなくスピードです。私は次に何をやるのかで、いつも頭がいっぱいです」
- 「今やっていることが楽しくて仕方ない。仕事という意識は全くない」
- 「成長に必要なのは技術的なエンジニアリングではなくソーシャルエンジニアリング(人の心理を読んで活動すること)である」
- 「何が最善かを決めるのはユーザーです。ヤフーはユーザーに選択肢を提供しているのです」
96年4月、創業1年にしてYahoo!はNASDAQで株式を公開しました。ヤンとファイロは巨万の富を手に入れましたが、その後もヤンは相変わらず大学時代の賃貸アパート暮らしで、生活に大きな変化はなかったと語っています。2007年、ヤンは暫定的にCEOに就任します。
業績不振で、Yahoo!CEOから退任
Yahoo!の後、1998年に設立された新興勢力Google社はYahoo!が注目しなかった検索エンジンの機能に着目し、その1点に絞って徹底的に品質を上げていく戦略を採りました。同時に、トップページに大手企業の広告を掲載することで広告収入を得るというモデルから検索連動型広告という、スケールしやすい、労働集約的でないビジネスモデルを展開しました。
2008年1月、苦しい経営状況下ではGoogleと市場競争ができないとして、Yahoo!は全従業員14,300人の7%にあたる1000人をレイオフすると発表しました。2月にはマイクロソフト社から総額446億ドル(1株31ドル、その後1株33ドルに引き上げ)で買収を持ちかけられましたがYahoo!取締役会はこれを拒否しました。
その後Yahoo!の株価は低迷し、投資家から経営責任を問う声が強まりました。ヤンは2008年にCEOを退任し、以前の役職であるChief Yahoo!に復帰しました。
フランスで検索エンジンの市場の約90%をGoogleが占めているように(2位のYahoo!は約3%))、欧米ではGoogleが圧倒的優位に立っています。Googleのシェアは年々大きくなっており、「イノベーションのジレンマ」にはまだ陥っていないといえます。2012年1月、ヤンはYahoo!とヤフージャパンの取締役およびChief Yahoo!を退任し、創業以来約17年にわたるYahoo!でのキャリアに終止符を打ちました。